楽しい川辺

  • Jan 02, 2014

 イギリス中部には、運河が網の目のように張り巡らされている。周辺の川と川をつなぎ、都市と都市のあいだを結ぶ。産業革命の初期、石炭や鉄を運ぶ主要な手段として、盛んに用いられた。運河沿いの小道を歩くラバが引くはしけが、運河や川を往ったり来たりした。19世紀半ば、主要な運輸手段としての地位を鉄道に譲り、運河は次第に衰えたが、20世紀半ばから保存運動が活発になり、今はもっぱら、休暇を過ごすモーターボートの水路として用いられる。

 運河には高低差を乗り切るための水門があちこちにあって、その幅が決まっている。そのため運河を往くボートの幅にも制限があり、ナローボートと呼ばれるように細長い形をしている。かつて荷物を積んだはしけの上に屋根をかぶせ、内部にキッチン、テーブル、ベッド、シャワーにトイレを設け、十分寝泊まりができる。小さなディーゼルエンジンでスクリューを回し、船尾の舵を押したり引いたりして向きを変え、ゆっくりのんびり田園のなかの水路を進む。

 今から20年近く前、家族と一緒にこのナローボートをエイボン川で初めて借り、1週間ほど川と運河の旅をした。川面から見るイギリスの田園は美しい。すっかり病みつきになり、これまで5回ほど試みた。その何回目にオックスフォードからテムズ川を下ったとき、途中パングボーンという変わった名前の町に立ち寄った。英国の作家ケネス・グラハムが居を構えた町だと、マリーナで求めたテムズ川ぞいの案内にあった。藁葺き屋根のその家を探し当て、他には何もせず、そのままボートに戻って旅を続けた。

4001140993.jpg 子供のころ、児童文学者の石井桃子さんが自宅に設けた子供の図書館、「かつら文庫」に毎週通った。そこで『たのしい川べ』という石井さんが訳した本に出会う。この本の原作、Wind in the Willows(柳を揺らす風)を著したのがグラハムである。イギリスの川辺の光景を描写する文章と挿絵が、記憶に残った。

 エイボン川で初めてボートの旅をしたあと、自宅の本棚の片隅に原作のペーパーバック版を見つけた。しばらくぶりでページをめくって驚いた。目次のすぐあと絵地図があり、主人公の動物たちが動き回る川辺の様子を、鮮やかなペン画で著している。その光景が、ボートの旅をしたエイボンの川ぞいのそれと、うり二つなのである。

 川は湾曲しながら、絵地図の左上から右下へと流れ、途中で運河とつながっている。運河をナローボートがラバに引かれて往く。川岸には物語の主人公の、川ねずみの家やヒキガエルの館が、川から少し離れたところにもぐらの家がある。川ぞいの原では、牛が草を食む。石の橋が川にかかり、そこから道をしばらく行けば小さな村が、川を下ればやがて瀬があって、勾配のある浅い川底の上を川の水は音を立てて流れ落ちる。瀬のことを英語ではWeirという。エイボン川のマリーナでボートを借りたとき、ボートの操り方を教えてくれたマイクさんという人が、Beware of weirsと言った、その口ぶりまで覚えている。ボートは瀬を行くと川底にひっかかり、立ち往生してしまう。越えることができないから、そのわきに設けられた水門を抜けて進む。そのWeirが絵地図にもきちんと描かれていた。

 グラハムは1859年にスコットランドで生まれた。5歳のときに母が亡くなり、兄弟とともに祖母の家に預けられ、そこで育つ。祖母の邸はテムズ川ぞいのクッカムディーンという町にあった。グラハムが描いた川辺の光景は、幼少時代テムズの川辺で遊び、ボートに乗った記憶を辿ったものだと言われる。若いときから文章を書いたグラハムは、英国銀行を辞めたあと1908年に、Wind in the Willowsを著す。現在に至るまでイギリス児童文学の傑作として読み継がれている。

 グラハムは銀行を辞めてから、幼少時代を過ごしたクッカムディーンに邸を求め、家族と一緒に住んだ。1932年に亡くなったのも、そこからさほど遠くないテムズの流れに沿ったパングボーンの家である。彼の墓には「グラハムは愛する川を渡ってこの世を去った。子供時代の思い出と物語を、永久のものとして残し」とある。

 長い命を保つ本だから、いろいろな版が世に流布している。もっとも親しまれているのは、アーネスト・シェファードという画家が描いた挿絵の載った版であろう。絵地図はその一枚である。1930年代になって新たにこの本の挿絵を担当することになったシェファードは、ある日グラハムを自宅に訪れる。おそらくパングボーンの家だった。老人のグラハムは、この若い画家が自分の描きたい挿絵について語るのを注意深く聴いたあと、口を開いて「私はこの物語の主人公達を愛している。やさしくしてやってくれたまえ」と言った。くつろいだグラハムは、テムズの流れ、土から飛び出すもぐら、川ネズミの川岸の家、ひきがえるの館、そのすべてについて身を乗り出して画家に語った。そしてシェファードと一緒に川岸へ行って、いろいろ案内したいのだが、「足が弱ってしまって遠くまで歩けない。君1人で行ってもらおう」と述べた。

 後日、シェファードはもう一度だけ、グラハムの家を訪れる。そして教えてもらった川岸を1人で歩き、その印象を描いた挿絵の原画を見せた。それを見てグラハムは軽やかに笑い、「君の絵で動物たちは生き生きしている。うれしいよ」と言った。シェファードの挿絵を載せたこの本の新しい版がほどなく世に出たとき、グラハムはこの世を去っていた。もしグラハムに会わなかったら挿絵は描けなかった。シェファードはWind in the Willowsの改訂版に寄せた前書きで、そう語っている。