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ブログ記事

オバマ大統領訪日と歴史問題

  • Apr 20, 2014
歴史認識の問題は、何も日本だけにあるわけではない。むしろどんな国にも、歴史をどう認識するかについての問題が大なり小なりある。


過ぎ去った昨日

  • Mar 02, 2014
Yesterday is history by Emily Dickinson


決して忘れない

  • Mar 02, 2014
9.11同時多発テロ事件の前後、私はヴァージニア大学のロースクールで教えていた。


雪のヨーク

  • Mar 02, 2014
ヨークは古い町だ。ローマ人がブリタニア島を支配していた頃、皇帝の北の宮廷が置かれたという。


楽しい川辺

  • Jan 02, 2014
子供のころ、児童文学者の石井桃子さんが自宅に設けた子供の図書館、「かつら文庫」に毎週通った。そこで『楽しい川辺』という石井さんが訳した本に出会う。


65万分の1の幸せ

 小学生のころ、夏休みは退屈で困った。することがない。動くと暑い。手持ちの本は大方読んでしまった。昆虫採集なんかまっぴらだ。宿題はしたくない。新学期前の数日が悲惨な状況になるとわかっていて、やる気が出ない。蝉の鳴き声がうるさい。おなかが減った。夕食までまだ時間があるなあ。しょうがないから、何もしないでボーッとしている。怠惰な子供だった。

 大学の教師になった理由の一つに、この夏休みがあった。給料は安くても、夏休みがある。2ヶ月近くのんびりできる。小学生の頃と同じように、持て余すほど時間があれば、本が読めるし、文章も書ける。気ままな旅にも出られるだろう。会社員やらロイヤーやら、時間に追われる生活に疲れた。そう思って、大学教員になった。

 それがどうだ。意に反して教員という職業はむやみと忙しい。夏休みはあるけれど、暇などありはしない。夏休みはまるまる休めると「信じた私が悪かった」。勤め先の大学で学部長を2年、常任理事を4年つとめたこの6年間は、特に忙しかった。

 仕事ばかりしているのは体に悪いから、週に最低1日は運動をしに出かける。夏は自宅近くの市営プールで泳ぐことにした。200円の入場料を払うと、1時間泳げる。夕方行けば、それほど混んでいない。午後6時を過ぎると、照明が灯ってナイターだ。冷たいシャワーを浴びて、プールに飛び込み、400メートルをクロールでさっそうと一気に泳ぎ抜ける。(本当はぜいぜいいいながら、かろうじて浮いている)。

 日暮れ時のプールはいい。段々あたりが暗くなり、プールのまわりの木々の緑が深みを増す。照明が水に反射してきらめく。闇のなかに、プールとその周囲だけ明るく青の空間が広がり、男女が思い思いに水中を跳ねたり、浮いたり、進んだり。つばめが水面をかするようにして飛び去る。蝶が一羽、ふわふわっとプールの上を行きすぎる。仰向けに浮くと、都会のなかに空がぽっかり空いて、雲がすべるように東から西へ飛んでゆく。

4140811013.jpg ビル・ブライソンというノンフィクション作家の作品に"A Short History of Nearly Everything"(邦題『人類が知っていることすべての短い歴史』)というのがある。宇宙の誕生から生物の発生、人類の登場までの過程を、そしてそれを発見し研究し理論を立てた個性あふれる科学者たちを、平易なユーモアある文章で描いたすばらしい本である。夏休みに時間を持て余している学生諸君へ、大いに勧めたい。

 著者はこの本の序で、「あなた」という人間が、何十兆、何百兆の原子からできあがっていること。しかも「あなた」という人間が存在するためには過去380億年のあいだ1回の間違いもなく、「あなた」の祖先たちすべてが正しく出会い、正しく生殖を繰り返し、次々に新しい世代を生み出してこなければならなかったこと。にもかかわらず「あなた」は平均で65万時間しかこの世に生存しないことを述べる。

 1日が24時間だから、1年で8760時間。65万時間を8760で割ると、74歳。希望的観測をすればもう少し長く生きていそうな気もするけれど、それより早く死ぬかもしれない。まあ仮に人生65万時間としよう。私の場合なんか、もう55万時間くらい行っちゃっている。残り10万時間しかない。

 今年の夏最後にこの市営プールで泳いだのは、入場料の関係で1時間だった。(それ以上入っていると、ふやけるし、入場料をあと300円払わねばならない)。あれはわが人生65万分の1、残り時間の10万分の1だったんだなあ。プールの水の中から雲の流れる空をぼんやり眺めていたら、はかなさと幸福感が同時にジーンと心にしみた、あの日もまた、もう帰ってこない。

(初出慶應義塾大学ホームページ「おかしら日記」2008年8月21日に加筆)